街道を行く21 横浜散歩(司馬遼太郎)
司馬遼太郎さんが大作「街道をゆく」のなかで横浜をとりあげています。文字どおりの「横浜散歩」を著してからおよそ四半世紀(25年)が経過しますが、いま読んでも少しも色あせることはありませんね。この本の紹介と当時司馬さんが歩いた場所はいまはいったいどうなっているかをたどります。
いまの横浜は、広い。とても横浜の本質など窺(うかが)えそうにないために、散歩するにあたって、とりあえず行動の範囲を関内に限ることにした。(原文を この色で示します)
吉田橋を起点にして、馬車道−語学所跡−新港埠頭(赤レンガ倉庫)−山下公園(氷川丸)をめぐります。今回「その1」では馬車道(ばしゃみち)周辺が中心です。
司馬さんは、幕末の開国にまつわる騒動と横浜がどうやって成り立ってきたのかという、今日までの発展過程に想いをはせます。また同じ港町である神戸との気風の比較も司馬さんならでは。興味をひきます。
■横浜の地形
横浜港の原型は砂嘴(さし)である。 と「横浜散歩」を書き出しています。
陸地から細長い砂洲がくちばしのように海へつき出て、入り江を抱いたようなかっこうになっている地形をいう。船の碇泊地としては、うってつけである。・・・ネギぐらいはできてもむろん米はできない。それに砂嘴はろくに地下水を含まないから、井戸を掘っても水を得ることができず、この砂嘴の上に住む漁村のくらしは不自由なものであったにちがいない。
山下橋から山下公園通り、ザ・ホテルヨコハマ、県民ホール、貿易センター、シルクセンターがある。さらに、神奈川県庁(江戸時代の神奈川運上所)、横浜税関などがあって、旧砂嘴こそ横浜市の核にあたる場所といっていい。
横浜村6ヶ村之図を掲載しています。ここをご覧下さい。(Postscript 9/30)
■吉田橋(よしだばし)
旧幕府は開港場の開設について、ハリスの江戸品川の要求に対し神奈川村(現在の横浜市神奈川区)としさらに西の横浜村(現在の横浜市中区)にまで遠ざけます。
この着想の根底に、オランダ人を監禁するように住まわせた長崎出島の思想がなかったとはおもえない。
と司馬さんはいいます。旧市街地(=外国人居留地)が東海道から外れているのはこのためですね。さらにいうと巨大な東京文化に吸収されてしましそうな地域でありながら、かろうじて独自性をたもっているとするならば、その原型がここにあるような気がします。
関内の標点のひとつともいうべき吉田橋に行ってみると、橋の下に水がなく、高速道路が走っている。まわりは都市設計的に気分よく仕立てかえられており、市がこの橋付近をいわば臍(へそ)として敬意を表していることがわかる。
車の流れの上にかかっている橋です。司馬さんはもしかしたら「川のない橋だけど、ちゃんと残してくれてありがとう」と言っているようにも理解できます。頭上を高速道路が走り窮屈になった日本橋の失敗例もありますしね。
■馬車道
19世紀の大旅行家イサベラバード(1879年横浜港入港)の紀行文を引用して、開港当時の馬車道の様子を表現しています。
街路は狭いが、しっかりと舗装されており、よくできてある歩道には縁石(へりいし)、溝がついている。ガス灯と大型商店街が立ち並ぶ大通りをすぎて・・・ というのが馬車道であろうか。。
一方、司馬さんが散歩した当時の馬車道は、
こんにち、この道はむかしの風情をとりもどすために、再改造されている。がっちりとした鋳物のガス灯風の街灯、赤レンガ風の歩道、・・・(中略)。歩いているうちに舞台の装置の中にいるようで自分までが芝居をしているような気がしてくる。
よくやるなという感じがしないでもないがこの過剰な(それはみごとである)設計意識の露出も別趣なリアリズムとして風化を重厚にしてくれるにちがいない。
司馬さんは横浜のこの種の都市改造を好意的にみてくれているようです。しかし、戦災で壊滅状態になったことも承知のうえでのことですが、あくまでガス灯「風」、レンガ「風」であることはしっかり書きのこしています。もう四半世紀がたった馬車道のいまの写真です(下)。まだまだ重厚とまではいかないですがいかがでしょうか。ガス灯風の街灯が正面にみえます。最近はまねされている(?)せいか、ほかの地区の道と区別がつかなくなってきたかな。馬車道らしさってなんなんだ。ガス灯だけかな。
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わき道にそれますが、街道をゆくシリーズの「江南のみち」でしたかね。中国の江南(揚子江の南側を江南と称します)を旅しますが、司馬さんは‘金持ち趣味’として中国蘇州の名庭園を敬遠しました。むしろ生活のにおいのする白壁の民家に大変な興味を示します。もし上海の東洋一というテレビ塔(上海 浦東地区)をみたら司馬さんは何というでしょうか。きっと「力学的に何の美しさもないチンケな建造物」と評すにちがいないと私は思っています。
本題へ
■回漕店(かいそうてん)
馬車道を浜に向かって歩いてゆくにつれて、記念碑ではないが、古風な造作の店やいま死語になってる言葉を使った屋号の店などがあって、目を見はるおもいがした。たとえば、店の名前に、「回漕」ということばがつかわれているのがみられた。−−船舶によって運送すること。「回漕店」
Y型道路の角にたっている五階建ての建物に、「八幡回漕店」という社名が出ており、港町がもつ品のいい保守性が感じられておもしろかった。
「八幡回漕店」(大正13年創立)の社名は残念ながらいまはなくなってしまいました。しかし「Y型道路の角の5階建ての建物」は、おそらく司馬さんが見たであろう当時と同じ形で残っています。昭和61年に八幡回漕店と楠原倉庫が合併し(株)八楠とし現存しています。あの「八幡回漕店の看板」はもう掲げられることはないのでしょうね。(まだ保存してあるらしいです)
プログ村折りたたみ自転車
司馬さんが横浜を訪れた時は、ザ・ホテルヨコハマ(現ホテルモントレ横浜)の新築当時に宿泊されたとのことですから、ホテル創業が28年前なのでおおよそ四半世紀前(25年前くらい)と考えればいいかなと思っています。
その2に続く 新港埠頭って意外に古いんです 司馬さんの横浜散歩(その2)
ヨコハマ本 横浜ゆかりの本の情報です。
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折り畳み自転車のことを検索したところこちらのブログを覗かせてもらいました。
折り畳み自転車を所有していること、それに乗っていろんなところに行った事を詳細に記録されているブログは すぐにでも自転車であっちこっち行きたくなる衝動にかられました。
実はダホンのメトロクラスのものを検討しております。
巷に流れる 折り畳み自転車のフレーム破損、長年のっていると接合部分にガタがきてパンドルもふらつくなどの耐久性に不安を感じています。
もしよければ これから折り畳み自転車を購入する者に対して何かコメントいただければ嬉しく思います。
はじめてお邪魔して このようなことを書き込みをどうかお許しください。
現在私が乗っているのはDAHONと技術提携して作っている自転車です(Made in China)。値が張らなくてそれなりのものをと考えて購入しました。3ヶ月で350km程度走行しましたが、今のところ車体の強度面での不具合はなく、また不安は特に感じておりません。
そろそろ上の車種へ切り替えてはと誘われていまして、bd−1とブロンプトン、DAHONを紹介されました。いずれも定評のある機種です。20kmまでの走行ならブロンプトン、40kmまでならbd−1がいいのではとのことでした。特にブロンプトンはキャスター付きで折りたたんだ後の移動も便利で食指が動きます。ただいずれも外国製なので価格もそれなりにします。(すこし検討しはじめています)
>団塊の世代が常に先にいます。
これ実感ですね。
早速 コメントいただきましてありがとうございます。
かなり走りこまれたにもかかわらず不具合がないということで少し安心して購入できそうです。
また購入したときにはご報告に参ります。
これからも更新楽しみにして覗かせていただきます。
ありがとうございました。
e-徒然草へたまによらせてもらいます。よろしくお願いします。
うって思ったのですよね。厚木インターから○○回漕店
という看板見えるのですよ。いまでは名前だけで、
ほとんど運送屋さんですね。
あと、氷川丸とマリンタワーは解体されてしまうんですよ
ね。所有者が桜木町の開洋亭だったとおもうのだけ
ど、経営がうまくいってないらしい。開洋亭は伊勢
山皇太神宮の一族がやっていたとおもうのだけどね。
司馬さんの街道をゆくは読んでると自分も同じ道をたどりたくなりますね。
自分はもう内容はほとんど忘れてしまいましたが、自転車で散策できる範囲に横浜があるっていうのは羨ましいです。
司馬さんの歴史観で語るその土地の生い立ちなどは面白かった、それにしても横浜市は大きすぎですかね。